文系の頭と理系の頭-ガリバー旅行村
たかしま21の7月12日発行の広報誌で井花議員が質問された中で
経年劣化が激しいし施設と名指しされたのは高島ガリバー青少年旅行村
86年に環境事業計画研究所
(当時の所長吉村元男・現在鳥取環境大学環境デザイン学科の学科長教授)
が計画されたものです。
完成当初に訪れたものの感想としては、アイデアのすばらしさと、
建物のぺれぺらさの両方に驚いたものです。
来た人が楽しめそうな、ガリバー旅行記に引っ掛けた形がいっぱい、
でも全ての建物が、柱の外側に板を1枚貼り付けただけ。建設当初から、
やせのある米松の板の隙間から内部に光が差していた。
1988 安曇川駅前 小判寿し
1987 安曇川湖西線西側 オミゾ社屋
1986 マキノピックランド近く ペンションマキノ
1984 マキノ駅前 マキノ駅前駐輪場 当時、私が設計した建物と比べてみても、
今のガリバー旅行村の建物が如何にみすぼらしくなっているかは一目瞭然。
でも、20年持って、高島の山奥の寂れたキャンプ場を、
「ガリバー旅行村」として有名にし、そのあたりから、
今の「畑の棚田」などが知られていくようになるきっかけにもなったのかもしれない。
その後「ガリバー」をアイテムとして使ってホールや
アイルランドとの友好提携なども行った旧高島町の軌跡を考えると
その端緒を作ったということではすばらしいのかもしれない。
20年事業を継続し、お金を生み続けたという事実もあると思う。
ただ、どうやって直しながら使い続けられるのだろうかと悩んでしまわざる得ない、
負の遺産といってもいいような建物を残したことは事実。
86年のその投資をどう考えるかは、今の私には評価しにくい部分がある。
あの計画は良かった、やったことに意義がある、という文系の考え方。
でも壊れるの当り前の建物。理系の思考からすれば、建築技術的には0点。
私は、ガリバーを発想し、作り上げたということについては、及ばないものを感じる。
その種の才能のなさを痛感して、「設計」に関わることから遠ざかった、今の自分がいる。
86年当時、夢を追うコンサルタントに「その予算ではまともなものは出来ない。」
というイーブンパートナーとしてのちゃんとした建築技術者が必要だったのだとは思う。
県単位の仕事なら、それなりの建築技術者集団(建築課、営繕課等)がある。
しかし町単位(今の高島市もあまり変わらなさそう)となると、
建物の設計はほとんど設計者にお任せになる。
そして、大学教授が主宰するようなコンサルタントにはそのような人材は少なそう。
だから今も常に「ガリバー旅行村の計画」のような、危機は孕んでいると思う。
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